最近衝動的に文章を書くと欝気味なあとで読み返すのも嫌になるものばかり書く。
でも書かずにいられない。書かずにほって置くと自分の中に悪いものがたまり取り返しのつかない事になりそうだからだ。取り返しの付かないことがどういうことか具体的には思いつかない。だがそれはとても悪いことで自分は愚か周りを不幸にするような、そんなものに違いないと思っている。そういう取り返しの付かないことにならないためにこの場に鬱々とした日記とも文章とも言えない、他の人には意味のない自分にとっての意味のある文章を衝動の赴くままにただ書き連ねるのだ。
誰にも相談できないからだ。相談できるほど具体的な不安や相手に自分の状態を伝えるすべを持たないからこうやって書いている。苦しいというのは簡単だ。でもなぜ苦しいのかがわからない。一応苦しさの理由の末端はわかっている。でもその不安の理由を解きほぐすと絡み合いこんがらがった排水口に溜まった髪の毛のようなわけのわからないものが出てきて当惑する。これを一体誰に説明できるというのか。自分でも分けの分からないこの不安を誰かに伝えることなど不可能だ。だからこうやって文章を書いている。
ここに書いている文章は自分の気持を吐き出すためでもあり誰かに助けて貰いたいという思いもある。今とても助けを必要としている。でも結局解決できるかどうかは自分次第。それもわかっている。だけどわかっているけど誰かに助けてほしい。もう自分一人ではどうにもならない。このままでは遅かれ早かれ自分はだめになる。
不安や恐怖、倦怠感や頭痛、それらを薬で散らし、自分の症状を人に面白おかしく披露し、人には笑いかけて何とか生きている。これがいつまで続くのか。これを続けていられるうちはまだこの苦しい社会になんとか自分の居場所を確保できるのか。サビつき時折きしみグラツキながらも社会の一端を担う歯車としての自分。それを目ざとく見つけられれば次の歯車と取り替えられて用済みになる自分。それがわかっている自分。わかっているつもりの自分。結局のところ僕は何もわかっていない。
吐き出すことによって少し楽になる。そのために書いている。誰のためでもない自分のために書いている。でも多分読み返すことはない。いわばこの文章は排泄物とおなじで見た目もひどければ臭いもひどいのだ。
ではなぜこんな人目につきやすいところに書いているのか。やはり見て貰いたいのだろう。こういう文章を書く人がいると誰かに知って貰いたいのだろう。そして助けて貰いたいのだろう。ねぇ僕はこんな文章を書いているんだよ。こんなに悲しい思いを持っているんだよ。誰か助けてよ。
そうやって悲劇のヒロインを演じて悲しみに浸っている自分に陶酔する。そんなことばかり繰り返したってなんにもならないだろう。でも書かずにはいられないんだ。だって書かないと苦しいから。書かないと苦しいと言うのは本当のことだから。牧師に行う懺悔のように、自分の罪とかいろいろなごちゃまぜなことを書いて自分の中から追い出したいんだ。
こうやって繰り返しまた誰の徳にもならない文章を量産し続ける。誰にも見られないこの文章。だがそうはいっても自分にとっては価値のある文章。今日のところはこのへんでやめておく。もしここまで読んだ人がいるのならば。なんだか色々と申し訳ない。出来ればこれを読んだあとには自分の好きなことをして楽しんでほしい。甘いモノ食べるとかね。僕はマルセイバターサンドが好きです。あれがここ最近の楽しみです。