チラシ裏日記上等!!新館

Webアプリケーションエンジニアの雑記帳。映画とかアニメとかの記事も書きます。

休日に働くべきではない

最近糞忙しくてブログの更新もできない有様だった。

まぁだいたい忙しいのは自分のせいなので誰にも文句を言えないんですけどね。とはいえこれが結構疲れるもので愚痴の一つや二つはきたくなるというものです。

たまに書いては鬱々と愚痴をこぼす日記になりつつある。せっかく独自ドメインにしたところで書いている内容がこれでは何ともむなしい。でもまぁしょうがない。だって書いて吐き出したいのだもの。

忙しくて大変で休日出勤もしなくちゃならなくて実家に帰って少し愚痴をこぼすと「これから先人生もっとつらいことがある」とか言われるのが何ともつらい。これから先の人生なんて僕はまだ体験してないし、先のつらいことを考えて今の僕はまだつらくないなんて思えるだろうか?人生の全体をみてそうだったとしても、今のつらさはまぎれもない現実な訳で先のことを思ったところで何の解決にもならないと思うのは僕だけか?

たしかに今つらいからといってその勢いで会社やめたり引きこもったりするのは問題だが、本人が今を辛いと思って苦しんでいるのに未来の辛さをといったところでいったいどんな意味があるというのか。俺が若い頃にはどうのこうのというのが言いたいのだろうか。

あなたが言う俺と、僕は別の人間で辛さの尺度も全く違うものだというのに「俺」の経験を「おまえ」に与えてあげようという。ある意味親らしくとてもありがたいおせっかいだ。そこにおそらく悪意はなく純真な子供を思う善意での発言だと思いたい。だがそれが善意であると思えてしまうだけによけい辛い。そう考えると僕もまだ親離れできていないあまちゃんだ。

善意が真綿で首を絞めるようにじわりじわりと苦しめてくる。実家に帰ると休まるがこういった辛さもある。実家にすんでいたときはそう感じなかったが、離れて距離をおいてみるとそうなってしまうのだろう。

だいたい世の中の苦しみは何かしら善意から生まれてくるのではないかと妄想してしまう。「あなたのため」「君を思って」「これから先のことを考えるとだね」全く持ってありがたいがそのほとんどが余計なお世話だ。それを邪険に扱うと「せっかく君のために」「忠告はしたからね」「どういうつもりなの」などと攻められる。善意ではじまったはずなのに呪詛が混じり始める。人の善意をその人の期待を裏切る形で処理してしまうとたんに恨みの感情に変化し始める。善意ってのはそういうもの何じゃないだろうか。

だから人に向かって菩薩のように無償の愛とかやさしさを分け与える覚悟のある人だけ誰かに向けて善意をむけることができるのではないだろうか。善意を向けることによって何か人をかえるなんておこがましいことを考えずにただただ優しくしたいから優しくする。そんな人間どこにもいないだろうけど、そうしようとする姿勢とか生き方なんてのはよくできた人ならできるのではないだろうか。

何も考えずにただ愚痴とかから初めていろいろ書いていると、相変わらず発散して訳の分からない文章になる。こういうことをうまくまとめて整理できるようにすれば作家になれるだろうか?